感動して泣くって、いったいどういうことだろう。
マーケティングあるいはプロモーション領域でも「感動」が手段として用いられることがある。それでも「感動」というのは、分かりそうで分からない。感動という心理現象は、どういう仕組みで作動し、何をもって感動と呼ぶのか。巷にあるれる「感動の定義」を参照しながら、少し考えてみたい。
広辞苑:深く物に感じて心を動かすこと。
こういう言葉の定義を考えるとき、あまり辞書は役に立たないのだけれど、まずはきっかけとして辞書的定義から始めます。広辞苑には、このように記載されている。
『深く物に感じて心を動かすこと。「名画に―する」「―を覚える」「―にひたる」』
確かに間違いではなさそうだけれど、あまりに漠然としていてよくわからない。「心を動かす」って感情や情動の一般的な様子であって、とりたてて「感動」という現象の説明には不十分だと思う。怒ったり喜んだりすることも、心を動かすことに含まれるのだから、感動の定義として必要十分だとはいえない。
次からは「感動」を言い得てそうな言説をピックアップします。
茂木健一郎:感動とは、自分自身を大きく変えること。
『人間の脳は、自分が経験していることを情動系のシステムに照らし合わせます。情動系のシステムとは、まさに私たちの感情を司る部分です。そこで今までの自らの体験やこれまで築いてきた価値観と照らしあわせるという作業をします。そこで脳が自分自身を変える大きなきっかけになる情報が来たと察知した時に、感動というのが起こるわけです。』
たしかに私たちが感動するとき、そこには従来の自分自身(の枠組み)を超えるような体験をしている場合が多い。自分自身の枠内(認識や予測・期待の範疇)にあるものに、わたしたちは感動しない。
けれど、感動ってそんな高級なものばかりでもない、とも思います。ありがちな月9ドラマの脚本に、ありがちだなあと思いながらも感動することもある。たとえばぼくは、昔から「最終回全員集合パターン」に弱かった。アニメとか漫画に多いのだけど、最終回に主人公がラスボスにやられかけて大ピンチのときに、これまでの道中で出会ったさまざまなキャラクターがそのピンチに駆けつける、というやつ。いわゆる王道展開ですね。けれど、もちろん感動する。やっぱ王道だよなー、と呟きながらわんわん泣いている。だから、茂木さんの話はやっぱり感動を言いえてないように思うのです。
それではもうひとつ似たようなアプローチの定義をご紹介します。
成城大学 岩佐 光晴:感動とは、対象に畏敬の念をもつこと。
『それでは、感動とはどのような心の状態をいうのでしょうか。私は、感動とは、その対象のものに畏敬の念をもつことではないかと思います。その対象が自然であれ、芸術作品であれ、「いいな」「すごいな」と思った時、おそらく人は、その対象の前で純粋になり、素直になっているのだと思います。そして心が浄化され、傲慢さや邪念のようなものがなくなると、心の底から自分でも思いもよらない潜在的な力が涌いてきて、それが人を良い方向へと導いていくのではないでしょうか。これは、まさに悟りの状態に近いのかもしれません。』
茂木さんと同じく「感動」の高尚な側面だけを切り取っているように感じます。ただ、後半の記述は興味深い。人が感動するとき、その人は、純粋になり、素直になる。心が浄化され、傲慢さや邪念のようなものがなくなる。これはたしかにそうかもしれません。感動と近い言葉で「カタルシス」という言葉がありますが、まさにこういう現象を指しています。
もう一方でこんな側面を切り取る論説もあります。
京都大学 高橋由典:感動とは、主体の解体である。
『「魅了される」「心奪われる」「惹かれる」「好き」「気に入る」(中略)これらの経験に共通するのは、一言でいえば主体の防衛的態度の解除とでもいうべき事態でしょう。魅力的な対象の前で、主体はふだんの自分すなわち防衛への顧慮に満ちた自分を解体させてしまっています。(中略)この様態においては主体は認識や判断の中心であることをやめています。主体の中心が事物に吸い込まれているといってもよいし、主体の空虚になった中心を事物が占有しているといってもよい。』
この文章は、直接「感動」を考察しているものではなく、「一目惚れ」というような瞬間的に好意を抱く体験を切り取っています。この方いわく、そのような体験の最中には、主体は主体であることをストップしている。合理的に判断したり、道徳に照らし合わせたり、そういう理性的な動きを止めている。一種のフロー状態(忘我)に近い様子である、という。
たぶん感動も同じだと思います。感動という現象も、どちらかというと「ある客体にさせられる」というような受け身の現象です。「よし、これは私の感動する基準に達したから、私はいまから感動するぞ」と考えて感動する、ということはない。そういう意味で、感動とは、理性的(あるいは主体的)行為とは呼べない。感動するときは、常に私(主体)のコントロールを離れて「感動させられる」のだ。
岡田斗司夫:感動とは、罪悪感の解消である。
『これは僕の持論なんですけど、あらゆる物事で感動するというのは罪悪感が解消されるからなんです。立派に生きた人の映画を見て僕らが感動するのは「そんな風に生きられない自分自身」を肯定されているような気がして感動するんです。
何か人間がポロポロ泣くというのは「もうそんな風になれない自分」を感じるから泣くんであって、だから子供は感動しないです。感動する話は大人にならないと分からないとか、物心ついて、10歳とか11歳くらいにならないと分からないというのは罪悪感がないからです。
罪悪感があって、もうすでにそんな自分はなれない、そういう風に頑張れないと思うからです。だから不幸な病気に耐えた人の手記とか読んで感動するのはそんな風になっても私はけなげに生きられない。その罪悪感で感動するんです。』
正直にいうと、この定義がわたしのなかで一番しっくりきた。愛人何十人もつくる人に納得させられるのは癪だけれど、仕方ない。僕たちは、多かれ少なかれ何かの罪悪感をもっている。「人にやさしくなれない」とか「決めた覚悟をつらぬけない」とか。自分自身の弱さと言い換えていいかもしれない。そういう罪悪感を抱いた上で、「純真無垢なやさしさ」とか「何があっても覚悟をつらぬき通すさま」を見せつけられると、思わず感動してしまう。逆にいうと、「人にやさしくできて、自分がやさしい人間であることを自覚している人」は、たぶん「やさしさ」に感動しない。
そういう意味でいうと、「子供よりも、大人のほうが感動しやすい」という話も納得できる。大人になると、どうしても罪悪感が多くなる。現実を生きて、折り合いを見つけ、妥協すればするほど、自分自身や周りに対する罪悪感が積み重なっていく。だからこそ涙もろくなる。たとえば子供の無垢な笑顔を見ただけで、泣いてしまう。もう自分は、こんな無垢な笑顔はわたしにはできない、という罪悪感を抱きながら。