動く人間か、止まる人間か、どちら良いか?
ビジネス書を読むと結局結論が「まずは行動が大事。とりあえずやってみよう」ということが多い。なるほどたしかに、宝くじは買わないと当たらない。それにまずやってみないと分からないことも多いし、失敗してもそこからトライアンドエラーで改善していけばよい。だから何よりもまず行動を起こすということが最もクリティカルな要素なのだ。
たしかにそうだと思う。でも、あんまりそういう結論が多すぎて辟易することもある。なんだか考えなしに「とりあえず行動したもの勝ち」みたいな精神って、少しでも知性を尊敬する人からすると、やはり受け入れがたい。「知性」とは、そもそも歩みをとめて、一度立ち止まり、熟考することでもある。
そんなことを考えているうちに、やや乱暴な二項対立ではあるけれど、「動く人間か、止まる人間か、どちらが良いか」という問いが生まれてくる。行動派か熟考派か。もちろんそれぞれの個性であり価値観であるので、どちらも大事という玉虫色の「正解」も一理あるけれど、やっぱりどちらか決めたい。どちらがより生きやすく、幸福であるのか。
ジークムント・バウマンの「リキッド・モダニティ」
その問いを考えるにあたって、ポーランドの社会学者ジークムント・バウマンは有用な現状分析を与えてくれる。彼いわく、現代社会の特徴を一言で表すと「リキッド(液体的)」ということらしい。これはその前の時代との比較をすると分かりやすい。その前は「ソリッド(固体的)」である。いわゆる大企業の終身雇用制下で一生をかけてマイホームを購入し、結婚相手と一生を添い遂げる人生。これがソリッドな社会での一般的なライフスタイルだ。堅固で確実で重く、まるで一つ一つの粒子がしっかりと結合した固体のような社会で、固体のような人生を送る。その一方、現代のリキッドな社会とは、転職・転居を繰り返し、人間関係も常に流動的で、価値観すらも移り変わる液体のような人生を送る、そんな社会である。
軽さとスピードが最も価値を持つ時代
そんなリキッドな時代での価値は、変化に対して軽快に移り変われる軽さとスピードである。換金性の悪い資産よりも、換金性の高い資産を持ち、一か所にとどまるよりも、場所に縛られず自由に動き回れる人間。そんな軽快でスピーディな人間が上位階層にのぼる。
すばやく移動し、行動できる人間、動きの瞬間性にもっとも近づいた人間が支配者となった。一方、すばやく移動できない人間、さらに目立ったところでは、意図的に動くことのできない人間は、支配される側にまわった。どこか「よそへ」逃避し、撤退していける能力、そのスピードを自由に操る能力を確保する一方、逃げまわる人間の動きをとめ、つかまえる能力を被支配者から奪うごことが支配力の源泉である。現在、支配をめぐる戦闘は、加速という武器で武装した軍隊と、ひきのばしという武器で武装した軍隊のあいだで戦われている。156
「流体的」近代は、離脱、乖離、逃避、そして、むだな追跡の時代だといえる。そして、逃げるのがもっとも上手な者、気づかれず自由に自由に動ける者が、「流体的」近代の支配者となった。157
たしかに日本のいわゆる「成功したビジネスマン」をみても、この現象は当てはまる。郊外に豪邸を建てる若い成功者はそうそういない。彼らは賃貸かあるいはホテル暮らしが多い。場所に縛られず、各地を転々と移動する。また、戦後創業者のようにひとつの事業を積み上げて拡大発展させるようなこともしない。彼らは事業すらも服のように着脱していく。すぐに誰かに売り払って別のことを始める。彼らの特徴を端的にいうと、軽さとスピードという言葉に集約できると思う。
一過性のコミュニティ、一過性のアイデンティティ
そのような時代においては、コミュニティやアイデンティティも大きく変質するとバウマンは言う。コミュニティは、より一過性の刹那的なものになっていく。パッと集まり、パッとなくなる。熱しやすく冷めやすい。たとえば社会運動コミュニティを例にとると分かりやすいと思う。日本の左翼コミュニティが活性化したのは1960年代~1970年代だが、その残滓は80年代まで続いた。たぶん今でも消えてはいない。革命の名のもとに集まった若者は、大人になり、そして老人になった。その一方、近年のSNSを中心とした左翼運動はどうか。少し前にSEALsという学生団体が特定秘密保護法の反対のために国会デモをしたことがあった。当時は有名人や学者を巻き込んでかなり大きなムーブメントを起こしていた。ただその発信源となったSEALsも数年後には活動を終了した。一時的に祭りを起こし、祭りが終わればすぐに解散する。いいか悪いかはさておき、とても現代的な現象でありコミュニティだったと思う。
そういう時代だから、もちろんアイデンティティも一時的で刹那的なものにすぎなくなる。「私は〇〇である」という肩書はすぐに入れ替わり、着せ替えられる。ちょっと前まで芸人だった人が、歌手になり、作家になり、youtuberになり、起業家になる。複数のアイデンティティを持ち、時代や状況に応じて適切なものを選択していく。それで、結局あなたは何者なの?という問いは、もうすでに放棄され、無意味になる。そんな問いにもはや意味はない。その時・その場所の自分の役割が、「自分」なのである。
直観的にも、このような社会分析は正しいと思う。流動的で一時的な社会のなかで軽くスピーディに生きるライフスタイル。時代はそういう方向にシフトし、そのシフトにより軽快に乗っかっていく人間が現代資本主義社会の勝者となる。
リキッドな社会のオルタナティブ
とはいえ、それでよいのか?というオルタナティブな意見は必ずある。果たしてそれで幸福なのか。果たしてそれで社会は機能するのか。果たしてそれで「本当に大切なもの」が損なわれることがないのか。立ち止まることも大事なのではないか。
おそらく内田樹は、このような意見の代表的論者ではないか。彼は一貫して、立ち止まり、逡巡することの重要性を説く。分かりやすく単純化しスピーディに結論を出すことの危険を説き、結論を先送りし、ためらい、複雑なまま生きることを推奨する。また宇野常寛は、あまりに刹那的でスピーディに情報が移り変わるネット社会のアンチテーゼとして「遅いインターネット」というコンセプトを発信している。彼らはリキッドな社会が全面化する時代において、ソリッドなものを守り保存しようとしている。
ただしそのような言説自体がリキッドな社会において、一時的消費され、飽きられ、雲散霧消していく危険もある。だからこそ彼らは、マス(大衆)への発信をやめて、小規模で持続的なコミュニティをつくる方向へと向かっているように思える。内田も宇野も、一度は出版業界で大きくもてはやされたものの、今はそれぞれに小さなコミュニティをつくり、そこを維持することに注力している。
さて、最初の問いは、「動く人間か、止まる人間か、どちらが良いか?」というものだった。これに関してはもう答えが見えているのではないかと思う。答えはやはり、動く人間なのだと思う。
わたしはバウマンいうリキッドモダニティからの抵抗として、内田や宇野の例を挙げた。たしかに彼らは「軽く・スピーディ」なものが重視される価値観に対して、「重く・スロー」な価値観を提示しようとしている。しかし彼らの抵抗戦略は、常に軽く・スピーディに実行されている。書籍・ネット言説・小規模コミュニティと自らは、軸足を軽快に移している。リキッドな社会のなかでソリッドな価値観を育てるために、リキッドに行動している。決して内田や宇野が、嘘をついているとか、言っていることとやっていることが違う、という話ではない。今の社会において、オルタナティブな価値を確立しようとするなら、やはり今の社会のルールのなかで戦わなければならない。それが現代の社会の在り方なのだと思う。