祈りとはなにか?

ごく普通に生きていると祈りとはなにか、を考えるような機会はまずない。食事と人間関係以外に、普段考えるべきことはないから。

それでも祈りって実は、すごく身近なものなんじゃないかと思う。意識はしないけれど、そこかしこに存在していると思う。

祈りのマントラ

僕は週に1度かならずヨガ教室に通っている。

50代のおっさんが自宅マンションでやっているマンツーマンのヨガ教室。企業がやっている大規模なヨガ教室ではない、ささやかな感じが気に入っている。そのおっさん(先生)も変わった人だ。50歳をすぎて古武術とトラック運転手のバイトをやりながら、街の主婦を相手にヨガを教えている変な人である。
私が習っているクンダリーニヨガでは、練習を始めるまえに必ずマントラを唱える。オンデ・ナモ・グルデ・ナモとゆっくり長く3回唱える。意味は忘れた。たしかどこかの地方の言葉で、だれかに感謝を述べるような意味だった気がする。オンデ・ナモ・グルデ・ナモ。
ある日練習を始めるときに、そのおっさんが「新しく唱えるマントラを増やす」と言った。別に構わない、と答えた。そのマントラは長く複雑なもので、とても復唱できるようなものではなかったけれど、しどろもどろで復唱した。
これは、ヨガ修練者の健康と無事を願う祈りのマントラなのだ、という。

おっさんがそのマントラを加えたわけを話してくれた。
このクンダリーニヨガを習っているほかの人(つまり同門の人)が、乳がんになったのだそうだ。40代の主婦で、本人は病気が分かってもあっけらかんとしている。それでもおっさんからするとかなりショックであったそうだ。身体と健康をつかさどるヨガ教室の生徒がガンになってしまうとは、大変くやしい、と。もちろんヨガがその人の健康に与える影響はかなり限定されたものにすぎない。遺伝とか食生活とかストレス環境のほうがインパクトは大きく、週1回2時間のヨガでどうこうできる問題ではない。そんなことは十分わかっている。それでも、やはり、くやしい。力不足だ。おっさんはそう言った。

ずいぶん職業倫理に厳しい人なんだと僕は思った。そこまでしょいこまなくてもいいだろうに。でも、同時にこの人は信頼のおける人だと思った。他のことはよく知らないが、ことヨガに関しては、おのおっさんは常に誠実で嘘をつく人ではないのだろう。というわけで、見たこともないその彼女の乳がんが完治するまで、練習のはじめにこの健康のマントラを僕も一緒に唱えることになった。

このマントラは気休めにすぎないけどね、とおっさんは言った。クンダリーニヨガというヨガのなかでもかなり怪しい部類のヨガをやりつつも、このおっさんは物質主義で唯物主義的な人である。覚醒?意識?超越?そんなことはどうでもいい、わたしは筋肉と骨にしか興味がない、とよくおっさんは言う。

それはそれで立派な立場である。精神的なものを求めてこの教室に来た人はたいていがっかりして去っていく。それでも一つの「看板」を掲げる以上は、自分の信念を通させてもらう。そういう人である。


そんな物質主義者の極右であるおっさんは、こういった。このマントラは気休めにすぎないけどね。でも、こんな祈りの言葉をいうくらいしかできることがないから、とりあえず祈っているんです、と。医者でもない自分には病気の治療はできない。自分は他人の病気に対してどうすることもできない。どうしようもないけれど、それでもなにかを望むときは、とりあえず祈るしかない。おっさんはそういった。

変えることのできないもの

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ

この言葉を語ったのが誰かは分からない。言葉だけ知っている。有名な言葉だ。でも実際「変えることのできるもの」って世の中にいったいどれくらいあるんだろう、とよく思う。他人を変えることもできないし、自分の性格や習慣だって自分では変えられない。天候も変えられないし、経済も政治も変えられない。しいていえばこの文章は自分で変えられるけれど、それも怪しいものだ。自分ではどうしようもない。自分ではどうしようもないものは祈るしかない。誰かに祈るしかない。

杉並区の僕の住んでいる地域は、古い遺跡がやたら多い。ひっきりなしに建物が建っている住宅街なのだが、掘るとすぐに縄文時代の遺跡が出るらしい。すぐ近くの神社は、縄文時代から祭場として機能していた。今も昔もそこは祈るための場所だった。
祈る目的はたぶん時代に応じて違うのだろう。昔はもっとシビアだったに違いない。明日の食糧だったり、村民ぶんの稲がきちんと収穫できることだったり。時代が下れば、それは合格祈願になったり商売繁栄になったりする。それでも人が祈ることは終わらない。なぜなら世の中は自分ではどうしようもない事柄で満ち溢れているから。

祈りの共同体

今でもヨガの練習の前には健康のマントラを唱えている。
ということは、おそらくまだ彼女は完治していないのだろう。だから僕は、顔も名前も知らない彼女の無事を今日も祈っている。
同門という以外には何の接点もないし、個人的なつながりもない。それでも寄り掛かった船だから、一緒に無事を祈る。そうすると、顔も見えない彼女と、なにか特別なつながりが構築されてくるような気がしてくる。ああ、共同体(コミュニティ)ってそういうことなのかもしれないと思う。近所づきあいもあまりない郊外で生まれ育って、とくに学校にも愛着持たなかった僕からすると、共同体(コミュニティ)というものは、遠い銀河彼方のフィクションかと思っていた。30歳をすぎてコミュニティを実体感するとは、なんとも情けない。でも、仕方ないじゃないか。

僕は旅が好きなので、よく日本中を旅行に行く。
そこでわかるのは、日本はほとんどが田舎でそこにはなにもない、という当たり前の事実である。ほんとに田舎はなにもない。とはいえ、いかにも観光地らしい観光地にも興味がないから、なにもない田舎に泊まる。けれどどんなに田舎でも必ずあるのが寺社仏閣である。だから日本中のいろんな寺社仏閣に行った。
有名な名所でもなければ大抵、人はほとんどいない。誰もいない寺社仏閣をひとりで歩く。なかには不気味で薄暗いところもある。そういうところは避けて通る。怖いから。
名も知れない寺社仏閣であっても、1000年以上前に建てられたというのはざらにある。丁寧に「鎌倉時代に〇〇という人物が建立し、」というような看板が立っている。1000年前から今まで、この場所はずっと祈るために使われてきたのか、と思うと、やっぱり背筋がまっすぐなる。歴史とか伝統とかにそれほど敬意をもって接するタイプではないけれど、1000年以上前にいた、「自分ではどうすることもできないけれど、どうにかしてほしい」という一般的な願望を持った一般的な人のことを考える。農作物の心配をしているのかもしれないし、夜ごと現れる盗賊をどうにかしてほしいと願っているかもしれない。もしかしたら妻子持ちの男を好きになった女性が、家庭崩壊を願っているのかもしれない。


人間って進歩しないな、と思う。技術や知識は雪だるま式に蓄積され変化していくけれど、それを乗りこなす人間のほうはいつまでたっても変わらないことで祈る。それはつまり、「自分ではどうしようもないこと」が変わっていないということであり、裏返すと「自分でどうにかできること」も変わってないということなのだろう。自分でどうにかできる範囲は、結局、今も昔もそんなに変わっていない。結局、人間が変わらないんだから、祈りの内容も変わらない。そういうことなのだろうと思う。

祈りの実践とその同門

他人を変えられないのだから自分が変わるしかない。
という言葉は、よく自己啓発界隈で語られる言葉だけど、これほど無意味な言葉はないと思う。人は、他人を変えたいといつまでも望み続けるし、自分を変えることも到底できない。だからこの言葉は祈りの言葉ではない。自分ではどうしようもないことを願うのが人間の古代からの営みであり、それが祈りだから。

ヨガというのは、徹底的に個人主義的である。
自分は自分、他人は他人。目指すのは自分の悟りであり、自分の解脱である。myselfでyourself。それでも、そこには恐ろしく広大な同門がいる。縦を見れば、数千年前からつづくヨガ行者のつらなりがある。横を見れば、全世界中にひろがる仲間がいる。目的も違うしレベルもバラバラだけれど、同じ実践を行っている。自分ではどうしようもない、よくわからない暗闇世界を、どうにかこうにか進んでいる同士がいる。やはりそこにはある種のつながりのようなものがある。たしかにある気がする。自分ではまったくコントロールできない身体の不思議に向き合い、存在すら怪しいチャクラとかプラーナとかをなんとか探そうする、祈りのような共同体がそこあるような気がする。
わたしはユダヤ・キリスト教とは縁遠い人間だけれど、彼らも同じような共同体を感覚しているのではないかと想像する。数千年間も実践されつづけてきた名もなき信者を、まるでわが事のように感じ、家族のように親しみを感じるような瞬間。

祈りとはなにか、という話だった。祈りとは、自分ではどうすることもできないことを、それでもどうにかしたいと願う、古代から続く人間の営みである。それは人間である以上、おそらく変わらない性質のようなものなのだろう。だからこそ、その祈りの性質は、時間や空間を超えてある種のつながり(共同体)のようなものをつくることができる。あるいはそれを錯覚することができる、といったほうが正確かもしれない。
なんにせよ、もしあなたが孤独を感じ、なんらかの「つながり」を求めているだとしたら、僕は自信をもってヨガか宗教をおすすめする。まあヨガも宗教みたいなものだが。

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