フラットアース説が見せた視点
数年前にフラットアース説というのが都市伝説界隈で流行った。今はもう下火になってると思う。
あれはとても面白かった。世界中にいろんな都市伝説や陰謀論があったけれど、彼らはこの21世紀に「地球は平らである」と真っ向から主張する。かなりラディカルだと思う。結構興味深く彼らを見ていた。
けれどよくよく考えてみると、私も子供のころにまったく同じことを思ったことがあった。
たしか小学校高学年くらいのことだった。
「水平線があるのは『地球が丸い』からだ、と教わったけど、果たして本当にそうなんだろうか。そう教わったからそう信じているけれど、もしかしたら「違う」可能性もあるんじゃないか」と海を見てふと思った。
海の近くに住んでいたので、海を見ながら考える機会が多かったのだ。だって、いくら科学的事実だと言われていても、自分の目で直接、地球の丸さを確かめたことはない。地球が丸いというのは、しょせんは誰かが言った「お話」にすぎない。別の仕組みで「水平線」ができる可能性は否定できないのではないか。そんなことをうねうねと考えていた。
その話を父親にもしてみた。まったく話が通じなかった。かわりにすごく丁寧に「なぜ水平線ができるのか」についての教科書的な説明を聞かされた。優しい人だ。ただ「ああ、たぶんこの人にはこの感覚は伝わらないんだろうな」と思った。とくに落胆はしなかった。
僕が感じていたのは、自分が直接見たわけではない「誰かが言った正しさ」への懐疑だった。「多くの人が正しいといったら、それは正しいことなのか?自分の目で直接確かめてもいないのに、なんで『正しいと言われていること』がほんとうに正しいと言い切れるのか」という疑念だった。幼いころ特有の感覚なんだろうと思う。
海外は、ない。
同じようなことを他にも考えていたこともある。
それも小学生くらいのときだった。「海外ってほんとうにあるんだろうか?」とふと思った。もしかしたら実は、海外って「存在しない」んじゃないだろうか、と。もちろん小学校で世界地図を習うし、どこにどんな人種の人が住んでいるかということも習う。写真もみる。それにテレビではしょっちゅう海外の映像が流れる。アメリカも、中国も、フランスも様々なメディアで見ていたし、知っていた。実際にこの目で見たことはないけれど、隣の県くらいの感覚で、それがそこに存在すると確信していた。
それでもある日「そんな国はほんとはないんじゃないか」とふと思った。
だってこの目で直接アメリカも中国も見たことはなかったから。ただ教科書やテレビで、そういう国があると伝えられただけだ。それがフィクションではないという保証がいったいどこにある?そう思った。べつにメディア陰謀論的なことを考えていたわけではない。ただ、自分の目で直接見ていないんだから、「外国が存在する」ということも「外国は存在しない」ということも、どちらも似たようなフィクションにすぎないんじゃないかと思った。
さすがにもう少し大きくなると、そんな疑念はいっさい浮かばなくなった。地球は丸いし、アメリカも中国も実際に存在する。当たり前の常識であり、疑いようもない。そんなことを常識的疑う奴は、頭がおかしい人なのである。宗教なのである、と。
科学と宗教の等価性
そんな風にそっと心に重い石蓋を閉じて20年間くらいたったとき、とつぜんフラットアース説なるものが現れた。すごく懐かしい気分になった。「存在しない」はずのアメリカという国に、似たようなことを考えていた人がいたのかと思って嬉しくなった。
ただフラットアース説は、そういう「常識世界への懐疑(あるいは専門家システムへの信頼の懐疑)」みたいな方向性からいつの間にか「頑な陰謀論」へと変化してしまった。それは残念だ。そこじゃないだろう、と憤った。
フラットアース説の醍醐味は、私たちが日々信じて疑わない「事実」の疑わしさが垣間見える点である。どれだけ証拠を積み重ねた「科学的事実」であっても、それは「主観的」にはただの伝聞情報にすぎない。「地球が丸い」という事実も、(わたしにとっては)誰かから聞いた噂話と変わらない。
つまり自分が感知できる世界の外側は、すべて「誰かから聞いた物語」でできている。それが「科学的事実」と信じられているものであれ、「宗教的世界観」と信じられているものあれ、本質は変わらない。フラットアース説は、そんな科学と宗教の等価性あるいは同型性を見せてくれる。
別に僕は「地球が丸い」という事実を疑うべきだとは思わない。科学的真実が虚構であるとも思わない。それにメディアはおおむね真実を伝えていると信頼もしている。たぶん地球は丸いし、アメリカも中国も実際に存在している。科学は正しいし、一般に信じられている常識は正しい。
ただし、それがあくまでも一つの「物語」であるということは留保しておいたほうがいいんじゃないかと思う。しょせんは誰かから聞いた「お話」である。もっともらしい「お話」だし、多くの人が確証している「お話」である。だからわざわざ疑う必要はない。それでもお話はしょせんお話にすぎない。それは「別のお話」とそんなに変わらない、と僕は思う。天使がいて精霊が踊る楽園のような世界の「お話」だって、(主観的には)この科学的世界と変わらない。だって自分が感知できる世界の外側は、ぜんぶ誰かから聞いた物語でしかないんだから。
科学はなぜ特権的なのか
じゃあなぜ科学という「お話」だけがかくも特権的に信じられているのか。なぜ同じ「誰かから聞いた物語」にすぎないのに、「地球が丸い」は常識で、「地球が平ら」はクレイジーなのか。なぜ宗教的世界観は否定され、科学的世界観は肯定されるのか。
これは僕にはわからない。でも考えるに値する問題だと思う。
まず前提として、「多くの人が信じている物語」だという点は大きいと思う。地球が丸いというのは、多くの人が信じて疑わない。
それに科学的正しさだって、先端科学いけばいくほど、「多数決」の様相を呈してくる。多くの科学者が合意しOKを出した事実が「正しさ」の仲間入りを果たす。僕が小学校のころは、まだ「超ひも(弦)理論」は奇抜な怪しい学説だったし、ヒッグス粒子なんて仮説すらも聞かされなかった。しかし時を経て、それが多数派を形成するようになると、いつの間にか「正しい」ということになる。そういえば、いっとき「日本には旧石器時代があった」という話があったけれど、いつの間にか無くなっていった。
それでも、やっぱり「科学」というのは、多数派か少数派かという数の論理を超えて、なんらかの特権性を帯びているようにも映る。地球が平らだと信じられていた時代にも、やっぱり地球は丸かった。万物が5つのエレメントでできてると考えられている時代から、原子も電子も陽子も存在していた。やっぱりそう思ってしまう。となると科学は、信じるべき特別な何かを有しているような気がする。それが何なのかは、また考える。