2020年5月、ジョージ・フロイド氏が白人警察官に首を押さえつけられて死亡した。このことをきっかけとして運動に火がつく。そしてコロナウイルスの世界的増殖の後を追うようなかたちで全米に広がっていった。まるでウイルスのように、とはさすがに言えないけれど。僕は比較的初期から興味を持って事態を注視していた。なんとなく目が離せなかった。正直にいうとコロナウイルスよりも興味深いし、重大だと思う。けれどコロナウイルスの第1波が収束するにつれて、ブラック・ライブズ・マター運動も徐々に下火になっていったように思う。
どんなに憤っていてもずっと怒りつづけることはできないし、こういう運動はいつかは沈静化していく運命なので、それはよい。ただ一番大事なのは、この運動が「一体なにを残したか」という点だと思う。その点でいえば、僕は、「たしかに何を残した」んじゃないかと思っている。なぜならこのブラック・ライブズ・マター運動は、さまざまな社会運動やデモと比べて、全く異なる性質を持っており、歴史的に最重要な運動だと思うから。たぶん未来の人が歴史を振り返ったとき、2020年にはこんなことがあったね、というひとつには数え上げられるんじゃないかと思う。それは、いったいなぜか?
1.ゴールのない運動
この点はあまりだれも指摘していないけれど、この運動にはゴールや目標といったものがない。この点がこの運動の最も特異であり、不思議な点だと思う。普通の社会運動やデモは、たいてい明確なゴールが設定されている。憲法改正だったり法案の廃止だったり政府打倒だったり共産主義革命だったり。思想を問わず、運動とはそういうものである。どこかの理想に向かうために何をする。
けれどこの運動には、それがない。法律を改正するわけでもないし、白人警察官を解雇することが主目的でもない。参加した人たちは一様に「Black lives matter(黒人も生きている)」と叫んでいたけれど、ただそれだけ。これはかなり不思議なことだと思う。たとえば「クジラも生きている」と叫ぶなら、その背後には「捕鯨の中止」という明確なゴールがある。しかしブラックライブズマターという言葉には、そういう背後がなく、ただ「黒人も生きている」ということを主張したのだ。なぜ、こんな不可解な運動が可能になったのか? なぜ、こんな無目的な運動が拡大することができたのか?僕はそこに興味ある。
2.1960年代公民権運動のリベンジ
この問いに対する仮説はある。おそらくは、1960年代の公民権運動のリベンジだから。どういうことか。ご存じの方も多いと思うが、1960年代にキング牧師が黒人の公民権の適用を目的として大衆運動を起こした。伝説となった「ワシントン行進」でI have a Dreamと叫んだのは1963年のことである。
この運動は、半分は成功し、半分は失敗した。この運動により、黒人の多くの公民権は保証された。ジョンソン大統領が公民権法を制定したのが1964年。これによりキング牧師をはじめとする黒人たちの運動の目標は達成された。これが成功のポイント。
しかしこれですべてが解決したわけではなかった。キング牧師の暗殺後、白人至上主義の盛り返しがあり、大規模な暴力事件も起こった。一方黒人側もマルコムXの影響のもと、過激な暴力的手段での差別排斥運動が熱を帯びた。そしてその感情的対立は今になっても続いている。これが失敗のポイント。
ここからわかることは、シンプルだ。差別を解消するには、制度だけでなく感情を解きほぐす必要がある。キング牧師は制度的な差別の撤廃に成功した。しかし感情的な差別の撤廃にまで踏み切る前に、凶弾に倒れてしまった。黒人と白人が手を取り合って暮らす彼のDreamは、まだ完成していない。
3.「黒人」を怖がらないこと
おそらくジョージ・フロイド氏を圧死された白人警官の心を支配していたのは、恐怖だろう。下手をするとこちらがやられるかもしれない。抵抗されたら抑えきれない。そういう思いもあったかもしれないが、もっと深い部分では、「黒人は怖くて危険」という無意識的な認識から生まれる恐怖もあっただろう。
それはおそらく1960年代のアメリカがやり残した「宿題」だ。制度では解決しない差別。感情こそが問題なのだけれど、では果たして「黒人を怖がらない」って可能なのか? もはや無意識レベルの認識の問題である。そんなものはどうしようもない。そういうわけでアメリカは2020年まで黒人差別問題を積み残してしまった。
さて、最初の問いはこうだった。なぜブラックライブズマターのようなゴールのない運動が可能になったか? なぜこんな無目的な運動が拡大することができたのか?
しかし僕たちはここで、問いのほうが間違っていたことに気づく。ブラックライブズマター運動は、ゴールを設定してはいけない運動だったのだ。無目的でなければならない運動だったのだ。なぜなら、この運動の矛先は、政府や白人警官ではなく、私たち自身の感情であり認識なのだから。「黒人は怖くて危険」という無意識レベルでの恐怖を自分たち自身で振り払うための運動なのだ。だからその手段はひとつ。言い聞かせること。それだけ。自分自身に言い聞かせるために、僕たちは「ブラックライブズマター」と唱え続けている。つまり、ゴールは外部にある制度の変更ではなく、自分たち自身の認識の変更である。だから、一見してただ言い聞かせるだけの無目的な運動に見えるのだと思う。
4.中庸は悪というロジック
もうひとつこの運動で興味深いことがある。
それは「中庸は、悪を放置していると同義だから、すなわち悪である」という新しいロジックだ。わたしはこれまでこういうロジックを聞いたことがなかった。新鮮な驚きがあった。facebookを運営するfacebook社は、これまで自社プラットフォーム内での政治的な発言に対して一貫して中立の立場をとってきた。プラットフォームはすべての人間に開かれるべきであり、そのためには政治的に常にフラットであるべきだ、というのが彼らの主張だ。実にリベラルらしい信念だし、私もこの意見に賛同してきた。実に正しい。
しかし一方で「中庸は悪」派の主張はこうだ。多様性を破壊する人種差別主義は、政治的意見などではなく、暴力や戦争といったような思想を超えて人類が否定すべきものである。だからこれらを放置することは、悪を放置することと同じである。ということらしい。
納得できるような、納得できないような。何か心にもやもやするものが残る。でもあの喧噪のなかでこういう主張をされたら、受け入れざる負えない。facebook社もおそらくしぶしぶだろうが、この主張を受け入れてプラットフォームの改修を余儀なくされた。西海岸的リベラリズムが敗北した瞬間である。多様性(黒人)を受け入れるために、多様性(民族主義/白人至上主義)を制限する。それほどにアメリカの人種差別問題は根深いということだろう。アメリカはまだまだ面白い。